金沢・犀川河畔:随分久しぶりに走りながら考えたこと


冬(といってもいいのだろう)の晴れた朝は、医王山から遅くのぼる朝日に照らされてはじまる。金澤を包む霧のような水蒸気が沸き上がる様が、光の細かな散乱からはっきりと感じる。光が散る、そして影の輪郭をとても曖昧にする。逆光のなかの人々を巻き取っているようだ。

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11月、仕事では仙台だとか、バンコクだとか、横浜だとか、随分出かけた。だから、とても忙しく過ごして、時間の流れが金澤に住みはじめてから最速だった。速く、そして短い11月。この区切りを味わい尽くした感覚もなく、はや終わってしまった。

山登りに打ち込んだ9月、10月。何故にか荒ぶるような気持ちを何処かに落ち着けるが如く、歩き続けた。自分でも呆れるぐらい、嶺を歩き続け、右足を痛めた。そのことが11月の暗い澱となっていた。走れないし、山にも登れない。

だから11月は引き籠もったような感覚のなかにある。随分といろいろな場所に出かけたのだけど。仕事の外は部屋のなかで音楽に耽溺していたように思える。暗い澱のなかの、とても甘い記憶。音だけを聴いていた。あとは近所で呑んで過ごす。

12月にはいった。金澤らしからぬ天気の数日がはじまった。

布団のなかでキンとした大気の冷え,を音で聴いたような気がすることがある。いつだったか冬の北八ヶ岳もそうだった。寒暖計の針が下に落ちきっていた。ダ イアモンドダスト,と呼ばれる凍結した霧が降り注ぐ朝がそう。なんとなく放射冷却の勢いを音で感じるのだ。12月に入ってすぐ、この朝もそんなに寒くはなかったのだけど、まだ 真っ暗ななかで、おなじような「聞こえない音」の感覚があったから、ベランダに出ると下弦の月と金星が煌めいていた。

寺町台地のうえから犀川への坂,長良坂を駆け下りる。いつものことだけど、線香の匂いが薄く流れる坂の朝は気持ちが良い。犀川に沿って、東から朝日が射し込みてらてらとしている様子が眩しくみえる。暗から明への結界のような坂の真中にはお地蔵さまがおられて、いつも手を合わせている。

冬(といってもいいのだろう)の晴れた朝は、医王山から遅くのぼる朝日に照らされてはじまる。金澤を包む霧のような水蒸気が沸き上がる様が、光の細かな散乱からはっきりと感じる。光が散る、そして影の輪郭をとても曖昧にする。逆光のなかの人々を巻き取っているようだ。蒸せる街を刻む水流に沿って走る。

走っているときにばんやり考えていたのは、はじめてカルフォルニアへ行ったときの朝。1995年だったかの6月。サンフランシスコ南のパロアルトへ出かけたとき。爽やかに乾燥している大気。誰だったか、「カルフォルニアで朝呑むオレンジジュースの美味しさ」を語っていた。確かに傷むほど乾いた喉にオレンジジュースが美味かった。大括りの時間帯の為か、6月というのに夜明け頃のハイウエィを出張先に向かったときの光景が緩やかにフラッシュバックしていたのだ。淡い金色の朝日のなか、ぼんやり車窓をみていたのだ。あの光。湿潤な金澤の冬の中で、乾燥したベイエリアの夏のことを。不思議なものだ。同じ光が射していたようにぼんやり思った。

膝の鈍痛におびえて走った8kmだったのだけど、大事にならないで走り終えた。家に籠もって音楽に浸るのもいいのだけど、折角身についた心肺能力が落ちてきているような気がする。体脂肪率も一桁目前だったのだけど、数%リバウンドしているし、やっぱり積雪の前にしっかり走ろうと思った朝だった。犀川の上流を正面に、犀奥から注ぐ光をうけて金色に光る芝のうえを走るのは、とても気持ちのいいことだしね。

我慢ができなくて走り始めた12月。ほんとうに久々に犀川河畔。大きく気持ちのなかでギアチェンジした。