Bangkok/Fukuoka夜行便:あさきゆめみし ゑひもせす

  仕事で出かけたバンコクなのだけど、とても限られた予算のなかでの活動なので、今回は自費で出かけた。以前から、そんなことは良くあるのだけど、それも航空券をマイルで手にできる利便性故のこと。今回、急遽決めたタイ側との打ち合わせだったこと、日本の連休とあたったこと、なので巧い便が予約できなくて探索に難渋した。その結果として、帰途は日曜深夜(正確には月曜)発の夜行便で福岡に向かい、羽田経由で小松に帰る長い空の旅となる。しかも、往路から福岡まではANA/タイ・エア、福岡から小松まではJALという組み合わせ。なんともややこしい。

  帰途のバンコク・福岡便は僅か6時間に満たないフライトとなるため、離陸後、オードブルで白ワインを流し込み、早々に座席を倒した。酷く疲れたくはなかったので、この区間だけビジネス。iPODに詰めてあるECMの音源、出発前に届いたクレメールのバッハ/無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータを聴きながら、浅い眠りにはいった。

  暫くして、機体が大きく揺れはじめ、そして奇妙な低い叫び声が繰り返し聴こえてきたことに気がついた。眼の前が揺れている。それに、正面の化粧板が剥がれ配管の一部がみえている。タンクのようなものが揺れていて、水蒸気のようなものが吹き出しているのが見えた。叫び声に混じって甲高い話声が聴こえた。もうだめなんだって。何が、と思った。機体はますます揺れて、古い教会音楽のような低い叫び声が続く。ようやく事態が呑み込めた。機体がもうだめ、ということ。

  そのとき想い出したのは、前日、雨上がりのバンコクアソークの交差点を歩いていたときに、ぼんやり考えていたこと。生きている、ということは、何もない世界・無から生を受け、物質的にも精神的にも存在があるということ。そして、再び、何もない世界・無に帰っていくために日々を過ごしているということ。帰った瞬間も静かに消えていくだけ。きっと痛みも苦しみもないだろう、ということ。ただ消滅するだけ。まさに諸行無常のヒトコマに過ぎない。バンコクの辻・辻の祠で手を合わせている人たちをみていて、彼らは輪廻を信じているのかな、とふと思ったときに、そんなことを徒然に考えていた。つい数日前に亡くなった知人のことも合わせて想いだしながら。

  だから、なんとなく、こんな機上の事態のために昨日考えたのかな、と思った。驚くほど冷静な気持ちだった。だけど、他のヒトの低い・声にならない叫び声が、地獄の釜が開いたときの音のようで怖かった。そうか、いよいよか、目覚めのない眠り。最近の夢をみない眠りの後に目覚めたときの感触、目覚めなければコレが消えてなくなるとうことか、をざらっと感じたりしながら、ゆっくりと墜ちていく。

  もちろん、今そのようなメモを書いている訳だから、夢のなかで夢が覚めて、ああ夢だったのかと明るい機内で何だか不思議な時間を過ごしたことを振り返っていた自分が可笑しかった。何で夢の中で夢が覚めたことが分かったか。夜行便の機内は真っ暗だからね。そのあとも、場面を緩やかに変えながら、そのような場面でボクが何を考えていたか、を知人達に語っている姿を自分の外から眺めていた。

  そんな浅き夢をみて、酔ひもせす、軽いトランス状態で日本に運ばれていきた一夜。普段は殆ど夢を見ない日常を送っているので、極上の非日常体験で旅のような旅でないような時間のお仕舞いを飾った。早く、金澤に帰りたいなあ。