モントリオールで空をみている


 空をみていて、日本にいないなあと思うのは尖塔の影をみたとき。空を見上げたとき、空を切り裂くような形をみたとき、なにか異質なものを見たような違和感がある。そして暫くしてそれが旅情なのかな、と思う時がある。イスタンブールでもそうだったし、パリでもそうだった。

 夕暮れになると呑んでいる。呑んでいるうちに、形あるものが影のようになり、形なきものが姿のようになる。だから抽象的なことをあたかも物理的な存在のように語っている自分に気がつき、恥ずかしくなるときがある。されとて、形あるものの形はこの世のものなのか、鏡の向こうに見えているものなのか判然としないのだけど。

 昨夜はスペイン人、ボリビア人(という人種はないのだけどメスティソかな)と一緒に呑んだ。挨拶はお互いのCrisisの話。俺たちはギリシャと違って建物を造りすぎただけなんだ、と云った。泡のような時代だよね、と。そして、続けてハポン(日本)というセビリアにある姓の話をした。日本という人たちがいる。いつの頃か、大航海時代か、にスペインにやってきた人たち。そして、いつしかコトバを失い、出自を忘れないようハポンという名前にしたという。東洋的なの、と聴いた。いいや、髪の毛も眼も俺たちと同じだ、と云った。ボクは思い出して、忘れられたポルトガル人の話をした。マラッカにいる、金髪で青い眼の漁師たち。400年昔に忘れられたのだけど、未だ髪の毛も眼もマレー人になっていない。キミたちは溶け込まないみたいだ、と。そんな他愛もない話をしている横で、ボリビアメスティソ(だと思う)が、ティティカカ湖の話をした。高いところにある、透明な水。突然、ボクは日本に行きたいんだ、と云った。ボクはケチャ語を喋れるか聴こうとして、酔っぱらっていたのでコトバを失っていた。

 もう1週間も出ていると、そろそろ金澤に帰りたいという気持ちが高じてくる。美味しい街だと云っても、飽きてくるからね。すっかり里心がついたのだけど、なんだか指呼にみえるような気持ちと、もう見えなくなったような気持ちとが交差して、その所在なさが良かったりする。不思議な感じなのだけど、呑み過ぎだね。